2014年5月30日金曜日

Peaceful time


今朝は、昨日劇的な再会を果たしたBenとその友達と朝食をとりました。彼はきょうマレーシアに発つということで、ゆっくりとした時間を過ごしました。

彼は日本語を勉強しているようで、日本では日本語を話したいし、日本語で歌えたらいいなと言っていました。
訪れる国ではその国の言語で話したい。相手に敬意を表する意味でもそういう姿勢はとても良いことだと思います。
今回の旅で海外志向が膨らみはじめたこともあり、彼が日本に来るまでには英語で会話ができるようになろうと決めました。

ハンブルグ出身のBen
彼にドイツにも行くと伝えました。
彼と日本で、あるいはドイツでともに音楽ができる日を楽しみにしています。

Today Ben set out for other country this afternoon, so we spent our time peacefully with breakfast.
Someday I hope we play music together in Japan or Germany.
for that purpose I decided that I would learn English diligently. 

16 May 2014 - 27 May 2014 Vipassana Meditation at Kathmandu


ヴィパッサナー瞑想についての基本理念はこちら。
http://www.jp.dhamma.org/

瞑想の基本的なメッセージは、
・「いま」を生きる
・自分が「いま」何をしていてどう感じているのか、を思考や感情ではなく自分自身の身体に感じ取る
・何が起きても平静さを忘れない
・物事を客観的に捉える

あたまは一切使いません。なぜなら思考は過去や未来へと流れやすく、感情は客観視することが難しいからです。この瞑想法は、人間を苦悩させるのものは「渇望」と「嫌悪」することだという仏陀の教えを純粋に引き継いでいます。誰かを崇めたり儀礼を重んじたり何かに祈ったりといった形式的な、集団を作りたがるような宗教とは一線を画しています。現代の世界中のいずれの宗教も、根本的な部分を失った、器だけのものだ、とこのヴィパッサナー瞑想の教えの中では説かれています。
「渇望」と「嫌悪」から自由になるために、上記のメッセージはあります。瞑想をおこなってみると、自分の身体が生化学的反応をもってどれだけ正直に反応を見せるかがわかります。




16 May 2014 - 27 May 2014 Vipassana Meditation at Kathmandu

京都で二度座り、今回で三度目。
一度目は病気への救いを求めて ー 身体の苦痛との闘いと客観的視点の獲得という非常に大きな恩恵。
二度目も病気への新しい活路を求めて ー 身体の苦痛の解放と幻覚体験での昂揚。
そして三たび。

ある程度要領を得ているのでスムーズに事を運ぶことができるであろうと考えていたのは、溶けたアイスクリームに蜂蜜をたっぷりかけて食べ頭痛に見舞われるくらい甘い認識でした。
それに加えて旅の途中での参加だったため、瞑想を行うという覚悟はしていたはずのものの、自分自身の現実から離れた気分抜けきらぬままにコースがスタートしてしまったようで、初日から雑念と身体の痛みという嵐に面喰らいました。
更には、ヴィパッサナー経験者にはこの困難を理解していただけると思いますが、提供された食事のなにかしら或いは水で腹を下し(インドやネパールでは腹を下すことはごく当たり前のことのようですが、タイミングが非常によろしくない)、7日目から結局コース最終日まで、なんとか休憩時間まで持ちこたえた腹をさすりさすり手洗いへとにじり寄る日々でした。

今回は前回二度目に体感したような錯乱しかけるほどの強い幻覚作用はありませんでした。これはおそらくどのような感覚が生じても、どのような想念やビジョンが拡がっても、客観的視点を常に忘れることがなかったためだと思います。前回は幻と現実の区別がつけられず、圧倒され、主観のみで見ていた自分がその幻に巻き込まれてしまった結果であり、今回それがなかったということは収穫のひとつと言えるでしょう。

深いビジョンは見なかったものの、瞑想としては更に一段自身の深みに降りたと感じています。物心つく前後から感じていたであろう他者とのコミュニケートに関する問題の根幹や孤独というものに対する捉え方や反応は、以前自身を深く追求した際に気付き、時間がかかりはしましたがそれら問題を受け入れて自分なりに昇華し解決したつもりでいました。しかしそれはどこか不確定的で、あたまでのみ理解をしていたのでしょう。
自分にとって都合の悪いものを気付かぬうちに目の届かない屋根裏の奥のほうへと隠してしまったのかもしれません。このような反応が慣習化されていることには気付いていました。が、気付かぬうちにそれは達成されてしまうので、何かあるたびに自覚し、また無かったことになるということの繰り返しです。
その問題点が再び、いや、根幹と思っていたものの更にその奥にその原因が存在していて、それが今回はリアルな体感を伴って立ち現れてきたのです。体感を伴う、言い換えるならば身体に生化学的変化を伴うと、脳の記憶に身体の記憶にいつまでも残ります。

今回の瞑想は10日間のうち、9日間と半日は大変厳しい時間でした。
ヴィパッサナー指導者である故S.N.ゴエンカ氏が心の手術と呼ぶ所以が少しだけですが理解できました。三度目でようやくこの瞑想法の神髄を垣間見たという気がしています。


ところで、瞑想中に気付いた話をひとつ。インドやネパールの蠅は肝が据わっているというのか、図々しいというのか、集り慣れているというのか、追い払っているさなかのその手に止まってきます。蹴散らそうとばたつかせるその脚に止まってきます。まるで自分のリキシャーになんとか乗せようとする、或いは自分のショップへ連れていこうと躍起になる、一部のインド人のようです。
両者ともなにか悪意があっての行為ではないと思うので悪ではないのですが、コミュニケートが取れない分、蠅のほうがたちが悪い。かといって、こちらが黙っていると好き勝手に止まり、平気で長居する。

考えた結果、どちらを取っても止まってくるのだからあまり気にしない、というのがこの地方で生活する上での正解なのかもしれません。そもそも、衛生管理が良くないために蠅が大量に発生しているのでしょうから、面倒くさがりが余計に面倒くさい結果を招いているという図式がここでも成立しています。

いずれにせよ、瞑想中は身体を動かすことを禁じられているため、瞑想ホールにはそこまでの数は飛んでいないものの、不運にも自分をターゲットにしてきた蠅に対しては「すべては移り変わる」の精神で反応しないという方法しか取れないのです。ですが、さすがに首筋や耳の裏を這い回られるとかなりの精神力を要します。正直に言うと、いまの自分の器では無理でした。これもひとつの試練なのでしょうか。先は相当に険しいようです。

2014年5月16日金曜日

土地の音

大学やJICA職員に音楽を教え、フジロックにも二度出演したことのあるネパールの音楽家と昨日知り合い、きょうは彼の工房へ。

彼はチークウッドを使ったサーランギーを自作するそうです。その他にもネパールの楽器をいろいろ紹介してもらいました。その国独自の楽器はその国の景色や匂いをもたらします。私の場合、旅の記憶は写真よりも土地の楽器の音色や音楽とセットになるようです。

彼の工房でシンギングボウルによるヒーリングを受けた後、かなりの大型サイズと小型のシンギングボウルを購入。アンビエントミュージックに拍車がかかります。

いよいよ明日から旅の目的のひとつ、10日間ヴィパッサナー瞑想が始まります。



2014年5月15日木曜日

Buddha Jayanti 満月の日


514日、満月の日。Buddha Jayanti(ブッダ・ジャヤンティ)。
お釈迦様のお誕生日です。お釈迦様は生まれた日も悟りを開いた日も涅槃に入った日も昨日の満月の日だったそうです。

今年はお釈迦様が生まれて2556年らしいです。お釈迦様が生まれた日、悟りを開かれた日、涅槃に入った日はネパール暦の「ヴァイシャーカ月の満月の日」とされています。
今年は514日がその日。このことを知らずにネパール入りし、幸運にもネパール最大のストゥーパのあるボダナートに行くことができました。チベット文化の色濃い街並みに仏教の旗が至る所でなびき、瞑想センターで瞑想をする時に毎晩聴く馴染みのある説法がどこからか聴こえてきます。マニ車を回しながら歩く老若男女、バターランプの灯火、五体倒地で祈りを捧げる敬虔な信者。本当に大勢の人々と巡礼者たちが集まっていました。

日が暮れると満月が明るく、照らされているという実感。このタイミングでこの地で瞑想をすることに必然を感じます。



2014年5月14日水曜日

インドからネパールへ

昨日インドからネパールに移動しました。

4月13日にインド入りした際、日本人宿のサンタナデリーまでピックアップしてもらったタクシーの運転手に不要なチップを要求されましたが(インドでのチップの慣習について無知だったため渡してしまい、その後、宿スタッフのちーちゃんに取り戻してもらいました、感謝)、きょうの空港までのタクシー送迎が奇遇にも同じドライバーでした。相手はどうやら覚えていない様子でしたが、インド入り一発目の洗礼を見舞った相手の顔は忘れるはずがありません。入国時のチップの件では社長に連れられて宿まで謝罪に来たらしいのですが、懲りていないようでまたしてもチップを要求してきました。声は小さかったので、少しはやましさを感じているのかもしれません。

幸いにもいまのところは恐ろしい状況に陥っていないので言えることですが、インドは分かり易い嘘や憎めないやり取りが多く、可愛らしく感じます。

ちょうど一ヶ月での一時出国ですが、まったく同じ状況で一ヶ月前と比較することができ、いくらかインドに慣れてきていることを実感しました。

ちなみにバラナシにも、もうひとり忘れたい忘れられない顔がいます。バラナシにはハルモニウムのオーダーの件で戻る予定があるため、色々な匂いの混ざった酷暑の下で気怠い再会があるでしょう。

今回のJapan Foundation New Delhiでのパフォーマンスで共作したダンサーの姉夫婦宅に有難くお世話になり3日間過ごし、その後16日から27日朝まで三度目のヴィパッサナー瞑想に入ります。

インドに一ヶ月滞在して感じること

昨日でインドに来て一ヶ月になりますが、この短期間での印象を書き留めておこうと思います。

インドではゴミをその辺に捨てるのが当たり前のようです。さすがにスターバックスやきれいなレストランなどは違いますが、列車内でも路上でもお構いなしです。交通ルールも「接触するな」くらいしかないように感じます。車線は平気ではみ出して運転するし、ちょっとした距離ならUターンせずに逆走する。3車線くらいのわりと広い国道レベルの道をバックする車も見たし、不衛生や危険のリスクを無視しているかのようです。

インドに一ヶ月いるあいだに見た限りでは、この国の人々の多くは全体のルールよりも自分の欲望を優先するようです。インド人は効率を重要視すると聞いたことがありますが、それも社会全体に対してではなく、自身の効率においてということなのかもしれません。
デリーでメトロに乗るとき、ドアが開いた途端に乗車客が降車客を押し込みながら乗り込んでくるあたり、特にそう感じます。せっかちかと思えば、待ち合わせやレストランのオーダーのルーズさがあり、いまのところインド人の思考が理解するのが難しいです。
ちなみにメトロの始発駅では、ドアをこじ開けてショルダータックルさながらの座席の奪い合いです。ホームでの整列も一列から二列、三列、四列と増えていき、電車が到着するころには列はほとんど崩壊しています。色々なものが非効率です。

また、Uターンの件やゴミをその辺に投げ捨てるなど、面倒なことを極端に嫌う傾向があります。
交通事故を起こしたり街が汚れて臭くなって自分自身が不快になったり歩きにくくなったりというような、後々より面倒なことになるかもしれないということをどれほど考えているのか、または考えていないのか。長い歴史を重ねて染み付いた行動には気付くことすら困難なのか。インド人のあたまの中が非常に気になります。

しかしながら、例えばゴミ捨てについては、ゴミ拾いを生業とする人々がいてその人の仕事をつくるために捨てるのだ、という考え方をインド人がしているのかどうかはわかりませんが、すべては必要があり理由があり現在があるのかなと感じる部分もあるので、非効率ながら変化するのは難しい社会だろうと感じます。それこそ日本がGHQの占領政策を受けたような外部からの統制がない限りは。インドは自国以外について知らない人が相当数いると思うので、変化どころの話ではなくそもそも別の方法を知らないだけなのかもしれません。ただ、ひとつひとつの物事に意味があることや宗教と生活が切り離せないものだったり、伝統音楽がいま現在も主流であることなど、変わって欲しくない部分が多い国でもあります。

2014年5月3日土曜日

Performance in India

現在インドに滞在中です。
Japan Foundation New Delhi(国際交流基金)から招待を受け2日間仕事をし、その前後で旅をしています。

今回はそのパフォーマンスについて書こうと思います。
Japan Foundation New Delhiの会場で4月22日にコンテンポラリーダンサーの即興と音楽とでのパフォーマンスをおこないました。
ダンスがメインのイベントですが、ダンスと音楽は切っても切れない関係性があるため、制作だけにとどまらず現地同行し、特に今回は即興要素が強いためリアルタイムでのオペレートもすることとなりました。


インド発祥の瞑想法であるVipassanaの体験を基に、音楽のテーマをMeditationに据えトラック制作をおこないました。
ダンスと対峙し、音を出しながら自身でも静かなパフォーマンスを交えての公演です。

インドの方々の反応は上々でした。
インド人はクラシックコンサートでも平気で携帯を鳴らすし、外にも出て行くような文化を持っているらしいのですが、パフォーマンス中は携帯が鳴ることもなく喋る人も会場の外に出る人もおらず、音の波が収まるたびに観客が一息つくほどの緊張感の高い時間でした。

パフォーマンス後のQ&Aでも多くの方から質問や感想をいただきました。感想をただただ伝えたいだけという方も多く、こういったことは演る側としては嬉しい限りです。
サウンドへの反応のみならず、現地のアーティストや瞑想をおこなっているように見える歳を重ねた方から、サウンドの奥に込めたテーマ性について質問を受けたり感想をいただきました。

このような日本と海外の反応の違い、ものの見方の違いなどを知ることができたことは帰国後の活動に大きな変化をもたらすことと思います。